2007年11月30日金曜日

質量保存の法則

 小、中学生を対象にした理科の学力調査の結果が27日文部科学省から公表された。その中で、なぜかクローズアップされているのが、質量保存の法則である。

 面白いことに、小5と中2で同じ問題を出題したようだ。その問いは
「水100グラムに食塩20グラムを溶かしてできた食塩水の重さと、なぜそうなるか」というものである。

 どうだろう。正答が書けるだろうか。答えは120グラムである。

 ここで、120グラムと正答し、溶けても食塩の重さは変わらないなどと答えられたのは小5で57%。中2の正答率は54%と小学生よりも低かったという。また、誤答では、溶けると「(食塩が)なくなる」などがあったという。

 同じ問題で、中2の正答率が低いという結果は情けないと見られている。しかし、正答率の低さは、経験からくるのではないだろうか。実は、化学変化の前後で質量が変わらないというのは不思議なことなのである。

 中2ぐらいになれば、スパゲッティをゆでるところを見た経験もあるだろう。この時、お湯に塩を溶かすが、たしかに見た目では塩は溶けてなくなる。さらに、体積は変わらない。こんな経験を持っていれば、単純に重さを足すことに抵抗があるのではないか。むしろ小学生は、何も考えずに足し算をしたと言えなくもない。

 さらに、その理由が「溶けても食塩の重さは変わらない」というのはお粗末過ぎる。この現象は、考えれば大変不思議なことなのだ。普通なら、異なる物質を足せば、体積は増える。ところが水と塩では増えない。これが、何に由来するか。それに興味を抱き、深く考えるくせをつけさせる。それが大事であろう。
 
 ちなみに、アインシュタインの特殊相対性理論によれば、質量とエネルギーは等価である。そしてエネルギーが発生すれば質量が減ることになっている。

2007年11月27日火曜日

防衛利権

 1976年に発覚したロッキード事件は、アメリカが田中角栄元首相を潰すために仕組んだ陰謀であると喧伝されたことがある。いまでは、それは否定されている。むしろ、別な側面があったのではないかといわれている。

 ロッキード社は、全日空の旅客機として自社の「トライスター」を納入させるため、合計30億円のカネを日本政界工作に使った。そのうち5億円を総理大臣だった田中角栄氏が受け取ったとされ、収賄容疑、外為法違反容疑などで逮捕された。

 実は、残りの25億円は岸信介氏(安部元首相のおじいさん)の盟友である右翼の大物・児玉誉士夫氏が受け取った(らしい)。そのカネは、彼を通して政界に分配されている(ようだ)。

 アメリカが恐れていたのは、これら自民党の親米政治家がすべて逮捕されて、アメリカの敵である社会党や共産党が利することであった。そのために、田中元首相をスケープゴートにして、他の政治家を守ったといわれている。

 ただし、もっとうがった見方がある。それは、検察の本当のねらいは防衛利権にあったというのだ。裏で動く金額は民間機の比ではない。おそらく、その10倍はあろう。ロッキードの戦闘機F-104とP3C対潜哨戒機をアメリカは自衛隊に売り込もうとしていた。この取引で裏金を受け取ったとされている自民党政治家は、その名前を聞くと、驚くような大物ばかりである。

 皮肉なことに、防衛機密という名のもとに、いままで隠されていた闇が、山田洋行という利権のためだけに存在する商社の内紛で表に出ようとしている。戦々恐々としている政治家や自衛官も多いのではないか。僥倖とはいえ、闇の一部が少しでもあぶりだされるのを祈っている。

2007年11月26日月曜日

諫早湾

諫早湾干拓事業が無事完成したというニュースが出ていた。あまりにもバカげた所業であった。一部の政治家と業者が国の金で私服を肥やすために、まったく意味のないことをした。それが諫早湾干拓事業である。悲しい話である。この事業のために、2500億円もの血税が使われたという。

 問題は税金の無駄遣いだけではない。自然を破壊し、そして、それまで豊潤だった海を死なせ、多くの資源を死滅させた。これほど愚かしい人間の所業があるだろうか。

 この事業は1951年に計画されたものである。なんと60年近く前の話だ。しかも農地を確保するのが主目的であった。いまさら、誰が干拓地で農業を始めるのだろうか。

 実は、干拓受託事業者から自民党の政治家に多額の献金が贈られているのだ。なんと16年で11億円に達するという。そういえば、この干拓事業の強力な推進者であった元農水大臣の松岡氏が諫早湾干拓事業反対の政治家とテレビで議論していたことを思い出す。地元の事情を知らないものが口を出すなと恫喝していた。

 日本は借金であえいでおり、消費税を20%まで上げなければ滅びるという指摘もある。しかし、その前に利権構造にメスを入れる必要があるのではないか。

2007年11月22日木曜日

ミシェラン3つ星

 いやはや驚いた。あの超難関といわれたミシェラン3つ星に輝いたレストランが東京で8軒も生まれたのである。ニューヨークで3つ星に格付けされているレストランは、たったの一軒しかない。いかに難しいかがわかるであろう。

 星ひとつでも大変な名誉とされている。それが、3つ星となると、そのレストランを訪れるためだけに旅行してもよいとされる。破格である。3つ星に格付けされると、世界中から料理めあての観光客が訪れるという。
 
 ミシェランの格付けが下がるということを危惧したシェフが自殺したということからも、その影響力の大きさが分かるであろう。評価されたレストランには素直におめでとうと言いたい。トーマスがそう言ったところで、何の有難みもないかもしれないが。

 おいしい料理を楽しむのは、なんとも言えない幸せである。しかし、料理は味だけではないことを忘れてはならない。気の置けない友人や家族と語らいながらする食事は格別である。

 もうひとこと言わせてもらえば、食べ物をおいしいと本当に感じるのは、おなかがすいている時である。満腹で一流レストランに行ったら、どんな豪勢な料理も楽しめない。所詮はそんなものなのだ。

 一方、本当にひもじい思いをしたときには、食べ物のありがたさを、いやというほど感じる。目黒のさんまがいい例である。グルメを競うことにどれほどの意味があるのだろうか。結局は、金持ちの道楽ではないのか。

 「うちは、料理が絶品なのだから無駄口はたたかず料理だけを味わえ」という料理家がいる。トーマスは思う。そんなレストランには絶対行きたくないし、そんな不遜なことを言う人間が作る料理がおいしいとは思えない。

 最後に、人間が人間を評価することに絶対はない。ノーベル賞の失敗をみれば分かるであろう。ミシェランの格付けは一年ごとに更新されるという。最高位に評価してくれたことは嬉しいことかもしれないが、それに固執する必要はない。評価する人間が一流とは限らないのだ。

2007年11月21日水曜日

教授の品格

 トーマスがアメリカの高校に通っていたころの話である。住んでいたのは、サンフランシスコの近くにある田舎町であった。なぜか、日本からの訪問者が多かった。サンフランシスコに近いということもあったのだろう。

 日本からツアーグループがやってくると、歓迎パーティーが催された。その趣旨はよく分からなかったが、海外の旅行者と交流するというのは、田舎に住んでいる人たちの楽しみのひとつであったのかもしれない。当時は、アメリカが日本社会を積極的に受け入れようとしている時代でもあった。

 訪問グループには、ある企業の一団や、一般の旅行客もあった。実に多種多様であり、どういうコネでやってくるのかはトーマスにはよく分からなかった。

 なぜか日本からの訪問者があるときは、トーマスは必ずパーティーに呼ばれた。いまにして思えば、その街では、ただひとりの日本人留学生であったので当然だったのかもしれない。そういえば、街に住んでいる日系二世や三世も呼ばれていた。高校生だからアルコールは飲めなかったが、ちょっと豪勢な料理が食べられるので、それはそれで楽しかった。

 ある時、訪問団のひとりに京都大学の教授がいた。どうやらカリフォルニア大学バークレー校を訪れたついでに、この街に来たらしい。当時トーマスは、京大教授は神様みたいな存在と思っていたので、親切心でお世話係を申し出た。

 ただし、彼には不愉快だったようだ。高校生ごときに世話にならなくとも、おれは英語でコミュニケーションができるんだぞということらしい。ただ彼の英語は、現地のネイティブにはまったく通じなかった。さらに、彼は、自分の研究の自慢ばかりで、自分はこれだけすごい研究をしていると説明した。当然、パーティーでは明らかに浮いていた。

 トーマスは必死にフォローした。京都大学は日本でトップの大学のひとつなのだと。すると現地のひとがこう言った。「ここでは京都大学なんて誰も知らないよ。UCバークレーは、世界的な大学だけどね」と。その町には、バークレーの教授が何人か住んでいた。
 さらに付け加えた。「彼がパーティーで嫌われているのが分かるかい。英語が下手だからじゃない。トーマスが苦労して場に溶け込ませようとしているのに、それが分からないからだよ。そんな人間はどうしようもないな」

2007年11月20日火曜日

学生評価

 ある予備校の調査である。大学教員の10人に6人がいまの大学生の学力は低下していると感じているという。ただし、裏を返せば、10人のうち4人はそう思っていないということなので、結論を出すのは早計かもしれない。

 大学生の学力低下の要因として「ゆとり教育」が挙げられている。ただし、少子化が進んだために、以前よりも大学に入りやすくなったので、全体のレベルが低下しているという指摘もある。

 ただ、いろいろと聞いてみると、能力が低下しているというよりは、意欲が欠如しているという意見のほうが強い。要は、ハングリー精神がないのだ。トーマスが若い頃は、頑張って大学に行こう。そういう意識が強かった。

 ただし、大学で一生懸命勉強したかといわれると心許ない。大学は勉強するところというよりも、卒業資格をとるだけの場所という意識が強かった。

 社会も大学教育にまったく期待していなかった。企業も、「新人は会社に入ってから鍛えます」という意識が強かったと思う。つまり、大学の存在意義は、その大学の入学試験に通ったという証明だけで、そこで教育を受けたということには、なんの意味もなかったのである。

 トーマスは、東大に入ったが、その教育レベルはあまりにもひどかった。学生に教えるということに意気を感じる教師はほとんどいなかったと思う。ただし、他の大学も同じようなものであった。「本当に勉強したいやつは独学しろ」そういう時代だったのだ。

 最近、学生に「将来の希望はなんですか」というアンケートをとった。「そこそこ暮らしていければ」そんな応えがあった。確かに、いまの日本では、なんとか暮らしていけるだろう。ただ、誰かが言ったほうがよい。いまの暮らしは、日本の高い技術力に裏打ちされているのだと。

 もちろん、将来に大きな希望を持っている学生も多かったことを申しそえておきたい。

2007年11月19日月曜日

バブルとサブプライム

 いまの大学生はバブルと聞いてもピンと来ないらしい。当たり前である。彼らが生まれて間もない1986年から1991年頃の話である。日本はわが世の春を謳歌していた。

 当時は、銀座で夜飲むと、タクシーがまったくつかまらなかった。店が客用にタクシーを呼べることが、一流店のステータスであったくらいである。乗ったタクシーの運転手の鼻息はあらく、東北からの出稼ぎだと話していたが、農閑期に3ヶ月もアルバイトをすれば、一年分の稼ぎがあると豪語していた。

 株価は天井知らずの高騰で、毎日のように最高値を更新した。素人が株で大 儲けするのが当たり前で、株をやらないのはバカとさえ言われた。NTT株は将来一株5000万円になると言って購入を勧めた証券マンもいた。
 
 当時は、マンションや住宅の買い替えで財をなすひとも多かった。マンションの値段があっという間に上がるからである。借金をして買っても、すぐに値段が上がるので、それを売れば借金はチャラとなり、さらにお金が残る。

 うまくマンションを売りぬけ、最後は億ションをせしめたひとも居る。この話とよく似たのがアメリカのサブプライムローンである。借金して家を購入しても、その家の価値が上昇すれば問題ない。

 しかし、ちょっと考えれば、住宅の価格が上昇し続ければよいが、一度、下がれば大変なことになるのはみえみえである。結局、バブル後は、日本でも破産者が続出した。アメリカで、まったく同じことが起こっている。しかも被害額は200兆円を超える可能性があるという。

 日本の株価が、もうすぐ4万円に届くという頃、アメリカのワシントンで株価暴落のニュースを聞いたのを覚えている。これは大変なことになると思ったが、その予感はあたった。株価はいっきに急落し、2万円を切るまでに落ち込んだ。当然、素人の株屋はみな大損し、借金を抱えることとなった。歴史は繰り返すというが、人は学習しないのだろうか。

2007年11月18日日曜日

教授解雇

今後、増えるだろうなという事例である。北陸大学でのドイツ語担当教授の解雇だ。

 北陸大学では入学者の定員割れなどのため、法学部と外国語学部を未来創造学部に統合した。その際、ドイツ語の教育を廃止したのである。そのあおりで、ドイツ語担当の教授に解雇通知を出したというわけである。

 大学側の事情も分かる。このままでは生き残れない。大学がつぶれたのでは、職員を全員解雇しなければならない。その前に、なんとか再編で再生を図ろう。当然、不必要な部門も出てくる。その部門の教授を抱えて高い給料をはらうわけにはいかない。

 一方、教授の立場もよく分かる。突然、解雇されたとしても、すぐに次の就職先があるわけではない。「ドイツ語は医療現場などで重要な言語」と主張しているようだ。しかし、別の部門を廃止したら、そこから反対意見が出るであろう。

 国は膨大な借金を抱えている。聖域なき改革の一環で、国立大学や私立大学に交付される補助金が、どんどん減額されている。しかも、学生数は年々減り続けている。いままでのような大学経営が成り立つわけがないのである。

 解雇を言い渡された教授は地位保全と慰謝料を求めて、裁判で訴えているようであるが、勝訴は難しいであろう。これを認めたら、大学の再編などできなくなるからである。

2007年11月17日土曜日

スーパーティーチャー

スーパーティーチャーという制度があるのをご存知だろうか。

平成17年の中央教育審議会答申によって導入された制度である。高い指導力のある優れた教師を位置づけるものとして、教育委員会の判断で、『スーパーティーチャー』などのような職種を設けて処遇し、他の教師への指導助言や研修に当たるようにするなど、教師のキャリアの複線化を図るというのがねらいである。

これは、教員の質の低下が社会問題化したため、その対策の一環として提案されたものである。ただし、すべての都道府県が導入しているわけではない。

 この制度の趣旨そのものに異存はない。現場で頑張っている先生に、それなりの処遇を与える。それは大切である。問題は、どうやってスーパーティーチャーを選定するかというやり方である。

 選定方法も教育委員会にまかされているようであるが、「誰がどうやって選ぶか」というレベルまでくると、急にきな臭くなる。実際に、京都では体罰で処分をうけた教員がスーパーティーチャーに選定されている。

 教育は本当に難しい。教え方がうまい先生よりも、たとえ下手であっても生徒と真正面からぶつかってくれる先生のほうが生徒の記憶に残るといわれる。教育実績のない新任の先生が、往々にして人気が高いのは、先生にも生徒にも新鮮さと緊張感があるからだ。ともに成長するのである。

 教育に王道なし。つねに、工夫を重ねていく。これが大事である。完成された教育手法などありえないのである。

2007年11月16日金曜日

国際貢献

 テロ特措法の論議で思い出したことがある。日本は、自衛隊を戦地に派遣できないという制約から、海外から非難されたことがある。イラクがクウェートに侵攻したことに反発したアメリカが多国籍軍をイラクに派遣した湾岸戦争の時である。

日本が軍事的な協力をしなかったということからアメリカ国内で非難が巻き起こった。そこで、当時の自民党の幹事長であった小沢一郎氏は、一兆円もの巨費をアメリカに提供したのである。

 残念ながら、この対応は評価されなかった。そこで、日本は英語が堪能な政治家をアメリカに送り込み、日本はこれだけ貢献しているという講演を複数の大学でした。ところが、学生からは総すかんを食らった。

 この政治家は「日本は国民ひとりあたり100ドルもの金を出して湾岸戦争に協力している」と訴えたそうだが、アメリカの大学生からは、たった100ドルでアメリカ人の命を買うのかと顰蹙を買ったらしい。

 なんとも情けない話である。一兆円といえばいいものを、国民の数で割って、たった一万円の寄与ということに矮小化してしまった。実は、トーマスの同級生の外務官僚が、この講演に随行したと聞いて、怒ったことがある。なぜ、一兆円の寄与を一万円にしてしまったのかと。すると、しれっとした顔で、そのほうが分かりやすいと政治家が言ったからという。

 その頃、海外の研究者と飲む機会があり、このことが話題になった。その場で、日本は一兆円の金を湾岸戦争に拠出したといったら、みんなが驚いた。トーマス本当か。いや、お前はドルと円の換算を二桁まちがえているのではないかと。つまり、当時の、海外の認識は、日本ははした金でごまかしたという印象しかなかったのである。本当に一兆円を出したなら、日本の貢献が一番大きいと各国の研究者は言った。

 実は、この金の使い道をアメリカは明らかにしていない。しかも、多数の日本の政治家にキックバックがあったとも言われている。日米双方の政治家が、この金を食い物にしたのだ。国民の血税である。しかも、日本は世界からバッシングを受けている。情けない。

2007年11月15日木曜日

危機管理

 最初からおかしいと思っていた。船場吉兆の不祥事である。事の発端は福岡市の百貨店「岩田屋」の地下食品売り場にある「吉兆天神フードパーク」での賞味期限の偽造である。

 この問題が報道されると、吉兆本社は「現場責任者のパート従業員が独断で表示シールを張り替え、われわれは知らなかった」というコメントを出した。そんなことがあるわけがない。それが最初の印象であった。理由は簡単である。パート従業員が、勝手に賞味期限を偽造する意味がないからである。

 彼女らは、あくまでもパートである。製品が売れ残ったところで問題が生じるわけではない。むしろ、勝手に偽造して、食中毒でも発生したら、場合によっては刑事責任も発生する。そんな愚かなことに手をだすはずがない。

 今回の事件では、吉兆は情けないくらい往生際が悪い。最初の段階で、社内調査をし、不正をみずから明らかにすれば被害は最小限で済んだものを。それが、事実を隠蔽しようとしたり、力のないパート従業員に責任をなすりつけようとした。つくづく危機管理のできていない会社である。
 
 偽装は止まらない。「但馬牛こがねみそ漬け」に佐賀県産と鹿児島県産牛を使っていたり、「地鶏のみそ漬け」と称してブロイラーを使っていたことも明らかとなった。会社ぐるみで不正をしていたのだ。吉兆の看板が泣いている。

2007年11月11日日曜日

議員ひとり3億円

いやはや驚いた。この国は、いったいどうなっているのだろうか。政府は9日、国会議員(衆院議員480人、参院議員242人)1人当たりにかかる経費は、2007年度予算で3億1078万円との試算を示した。

もちろん、ひとりあたりの金額にもあきれるが、もっと問題なのは、日本の議員の数が多すぎるということである。アメリカの人口は約3億人で、日本の約3倍であるが、下院議員の数は435人、上院議員の数はたったの100人である。

これに対し、識者のコメントとして、「ヨーロッパに比べて人口あたりの議員数は日本が少ない」とある。このコメントにもあきれる。ヨーロッパは、人口の少ない国がひしめきあっている。よって、日本では地方議員に数えられるようなひとも国会議員となっているのである。そんな地域と比較すること自体が無意味である。

 日本の議員の問題は数だけではない。ひとりひとりのレベルがあまりにも低すぎるのだ。法務大臣のとんでも発言や、民主党党首の愚行からも、そのレベルは知れるであろう。

 海外の議員が立派とは必ずしも言えないが、日本の議員は、おしなべて地元利益誘導型である。いかに自分の選挙区に金を落とすか。それがすべてである。そしてついでに金を自分の懐にくすねる。それが700人以上もいて、税金を食いつぶしている。

 議員たちの愚行は税金の無駄遣いだけではない。族議員として役人に無理難題を押しつける。もちろん、国会議員だけが問題なのではない。政務調査費で豪華旅行をして、税金を無駄遣いしている地方議員もやまのようにいる。議員の数を半減したら、日本はどれだけよくなるだろうか。

2007年11月9日金曜日

日本の政治家

 テレビのニュースを見ていて本当に驚いた。常識はずれの政治家は何人も見てきたが、このひとは群を抜いている。鳩山邦夫法務大臣である。

 彼は、10月29日、東京都内の外国特派員協会での講演でとんでもない話をした。「私の友人の友人にアルカイダがいる。『バリ島の中心部は爆破するから近づかないように』とアドバイスを受けた」と発言したのだ。冗談ではない。

 これは、彼がバリ島のテロを事前に知っていて、何も対策をとらなかったことを意味している。多くの無実のひとたちを見殺しにしたのだ。さすがに、まずいと思ったのか、講演後に、「事件の3、4カ月後に聞いた話」と訂正した。しかし、特派員協会での話を聞いた限り、事前に知っていたとしか思えない発言であった。常識人なら分かるであろう。事件後に現場に近づくなとアドバイスされるはずがない。

 当然、遺族は怒っている。バリ島のテロでは、新婚旅行で滞在中であったふたりの日本人が命を落としている。遺族は外務省に連絡を取ったが「大臣の発言内容の真偽が確認できない」と相手にされないようだ。

 仕方がないので、鳩山事務所に遺族として実名を名乗った上で「事件を予告されながら国民を守ろうとする働きを一切しようとしていない。大臣として失格であり、即刻辞任し、陳謝すべきだ」と記したファクスを送ったようだ。当然のことであろう。しかし、いまだに無視されたままという。

 彼の驚くべき発言はこれだけではない。「若いころはペンタゴンにてんぷらをおごってもらった」とか「日本にはテロリストがいる」などと迷走発言を繰り返している。本当に政治家なのであろうか。
 
 ふと考えて思い直した。日本の政治家なのだから、こんな支離滅裂は当たり前なのだと。民主党のごたごたを見れば、よく分かる。

2007年11月7日水曜日

忘れられた村

 岩手県にかつて沢内村という村があった。いまは市町村合併で西和賀町となっている。この村は、日本ではじめて老人医療費を無料にしたことで知られる。中学校の社会の時間の課題で調べたことがあるのでよく覚えている。

 沢内村は1960年に65歳以上の医療費を無料化、翌年には60歳以上に拡大した。当事調べていて、不思議に思ったのは、無料化後に村の医療費が減ったという事実である。

 そんなばかなことがあるのだろうかと疑問に思った。しかし、理由を聞いてなるほどと思った。無料化になったことで老人が気軽に病院に行けるようになったからだという。その結果、大病になるまえの治療が可能となり、医療費が逆に減ったというのである。

 まさに逆転の発想である。非常に感心したことを覚えている。こんないい制度は日本全国に広めるべきだと中学生ながら思った。調べると、沢内村にならって、1969年に東京都と秋田県が老人医療費の無料化に踏み切ったことを知った。その後、老人医療費無料化は全国に広がったという。

 なぜ、こんなことを思い出したかというと、2007年版厚生労働白書が特集としてまとめた「老人医療費の無料化の歴史」が最近ニュースで話題になったからだ。なんと、この白書ではパイオニアの沢内村のことをまったく無視しているらしい。これに、旧沢内村村長(現西和賀町長)が苦言を呈したというのだ。当然であろう。

 これに対し、厚労省保険局老人医療企画室は「都道府県段階の無料化を取り上げたまでで、沢内村を否定したものではない。間違いではない」と開き直っているらしい。まさにお役所仕事の面目躍如である。しかも、例によって誤りを認めない。

 エイズ薬害問題、C型肝炎問題、年金問題。どれをみても、厚労省の体質は変わらないようだ。

2007年11月6日火曜日

教育と研究

かつて、アメリカの大学で議論が巻き起こったことがある。大学では研究業績だけが重要視され、教育業績がないがしろにされているという指摘である。大学の本来の使命は教育であり、研究はあくまでも付録であるはずだと。

 実は、日本でも同様の議論が沸き起こっている。大学では教育がすべてであり、研究はどうでもいいという主張する大学人も多い。文科省も、大学を教育大学と研究大学に二分したいようだ。本音は、補助金を減らしたいということのようだが。

 教育大学を標榜するひとは、「研究をやっている連中にろくなやつはいない。なにしろ教育をないがしろにしている」と主張する。確かに、そういう教授がいるのは確かである。しかし、はっきり言いたい。教育をないがしろにするものは研究者として三流である。

 ただし、「自分は研究はしないが立派な教育をしている」と主張する連中は、研究しない(できない)ことの言い訳に使っているだけである。しかも、教育でも手を抜いている。実は、研究をしなければ、新しい知識はえられない。自分がつねに研鑽を積んでいなければ、学生に興味ある講義などできるはずがないのだ。

 かつて友人のノーベル賞学者に、ある国際会議の招待講演を依頼して驚いたことがある。「親友のトーマスの依頼だが、断るしかないな」と言われた。理由を聞いたら、会議の開催時期が学期の途中なので大学の講義があるからだという。しかし、彼だけではなく、米国で有名な教授に招待講演を依頼すると、いつも同じようなこたえが返っている。一流の研究者は、教育をも大切にしているのである。

彼らはこう言う。"I always enjoy teaching my students. It is exciting." トーマスは少し反省する。

2007年11月4日日曜日

大連立

 驚いた。自民党と民主党が連立を組むという構想が、両党の党首会談で話し合われたというのだ。結局、民主党の反対で決裂することになった。

 大連立には、賛否両論いろいろある。両党の身内からの批判も強い。これには、選挙区事情がある。いまの小選挙区制では、連立はありえないからだ。そこで、昔の中選挙区制に戻すという案まで出ている。

 しかし、きなくさい。なんで、こんな構想が出てきたのだろうか。この話を持ち出したのは、自民側だ、いや、民主の小沢さんだとマスコミや評論家もかまびすしい。実は、中曽根さんが仕掛け人だったという噂も出ている。いや、読売新聞の渡辺会長という話まで出ている。

 ねじれ国会では、重要法案も通せない。参議院議員の任期は六年である。三年後に半数改選はあるが、野党の優位は変わらない。これでは、国の政治は前に進まない。

 そこで、天下国家を憂うる大物たちが立ち上がった。こんな美談を持ち出すマスコミもある。しかし、登場人物は、いずれ黒い噂の絶えない連中である。そういえば、この騒ぎで防衛省スキャンダルの扱いが小さくなった。こちらを掘り起こされては困るという政治家も多いと聞く。

2007年11月2日金曜日

ゆとり教育

 中央教育審議会が「ゆとり教育」が間違いであったことを正式に認めたらしい。政府機関が間違いを認めるということ自体珍しい。

 本来、ゆとり教育とは、ペーパーテストだけですべてを判断するという風潮から、「成績がすべてに優先する」という一般常識にかける子供や親が急増したことに危惧した政府が、もっと子供の多様な能力を伸ばそうと打ち出した教育政策である。つまり、「つめこみ教育」をやめて「ゆとり」へという発想であったはずだ。

 実は、トーマスは、ゆとり教育の趣旨に賛成したひとりである。それは、日本の教育に大いなる疑問をもっていたからであった。

 たとえば、日本では、学年ごとに学習目標が設定され、そこまでできなければ「落ちこぼれ」という烙印をおされ、まわりからもばかにされる。

 一方、アメリカでは、学習目標はあるが、それは、あくまでも目安で、それを達成できないからといって責められることはない。むしろ、生徒が少しでも進歩すればほめられる。「昨日までできなかったことが、今日はできるようになったね」というわけである。

 つまり、日本はネガティブ教育なのに対し、アメリカはポジティブ教育なのだ。子供の能力は多種多様である。同じ小学校一年生でも、レベルはまったく異なる。それを、一律に、ここまでできなければダメといわれたら、やる気がうせるどころか、希望も失ってしまうだろう。

 将来伸びるかもしれない才能を、日本式ネガティブ教育で、どれだけ芽をつみとっただろうか。それを心配していた。残念ながら、「ゆとり教育」となってもネガティブ教育の根は変わらなかったが。

2007年11月1日木曜日

奨学金を行政改革?

 財務省は、来年度予算で文部科学省の奨学金事業予算を削減する方針を固めたらしい。その理由として奨学金を遊興費に転用する学生が目立ち、苦学生支援という奨学金本来の意味が薄れつつあるとしている。

 確かに、その傾向はある。しかし、奨学金をもらった人間はいっさい遊ばずに、勉強だけしていろというのはどうだろうか。All works and no play makes Jack a dull boy.ということわざがあるように、勉強ばかりで遊ばない人間は将来大成しないといわれている。

 私も奨学金のお世話になったひとりであるが、ストレス発散に安い居酒屋に後輩をつれていっては、将来の夢を語ったり、世の中の不条理を嘆いたりした。

 給料の安い最初の頃は、返済するのは大変だったが、ちゃんと返さなければ、後輩に迷惑がかかると思って20年で完済した。問題は、奨学金を返さない人間が増えていることだろう。回収不能に陥った奨学金は、平成18年度には2000億円を突破するとされている。

 しかし、これにも理由がある。返したくとも返せない人間が増えているのだ。前にも話したが、博士号をとって定職につけるのは、わずかである。ポスドクについても、期限がきたら辞めざるを得ない。その後の保障はないのだ。仕事がなければ、返済はできない。2000億円という額は、博士問題の深刻さを反映しているのだ。

もちろん、中には返せるのに返さない不届きものもいる。典型例は、博士を日本でとったあと、海外に転出した連中である。督促状を送ろうにも行き先が分からない。その後、何年かして日本に帰ってきても連絡をとらない。そのまま踏み倒してしまうというわけである。

 とは言っても、奨学金を必要としている学生はけっして少なくない。財政が厳しいからという理由で奨学金を減らすと、日本の将来に禍根を残すことになるだろう。