2007年11月6日火曜日

教育と研究

かつて、アメリカの大学で議論が巻き起こったことがある。大学では研究業績だけが重要視され、教育業績がないがしろにされているという指摘である。大学の本来の使命は教育であり、研究はあくまでも付録であるはずだと。

 実は、日本でも同様の議論が沸き起こっている。大学では教育がすべてであり、研究はどうでもいいという主張する大学人も多い。文科省も、大学を教育大学と研究大学に二分したいようだ。本音は、補助金を減らしたいということのようだが。

 教育大学を標榜するひとは、「研究をやっている連中にろくなやつはいない。なにしろ教育をないがしろにしている」と主張する。確かに、そういう教授がいるのは確かである。しかし、はっきり言いたい。教育をないがしろにするものは研究者として三流である。

 ただし、「自分は研究はしないが立派な教育をしている」と主張する連中は、研究しない(できない)ことの言い訳に使っているだけである。しかも、教育でも手を抜いている。実は、研究をしなければ、新しい知識はえられない。自分がつねに研鑽を積んでいなければ、学生に興味ある講義などできるはずがないのだ。

 かつて友人のノーベル賞学者に、ある国際会議の招待講演を依頼して驚いたことがある。「親友のトーマスの依頼だが、断るしかないな」と言われた。理由を聞いたら、会議の開催時期が学期の途中なので大学の講義があるからだという。しかし、彼だけではなく、米国で有名な教授に招待講演を依頼すると、いつも同じようなこたえが返っている。一流の研究者は、教育をも大切にしているのである。

彼らはこう言う。"I always enjoy teaching my students. It is exciting." トーマスは少し反省する。

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